183
すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること。
これが諸の仏の教えである。
185
罵らず、害わず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。
これがもろもろのブッダの教えである。
これらの文句は、『法句経(真理のことば)』の「第14章 ブッダ」に説かれているもので、この第14章は法句経の中でも重要な箇所のひとつです。
特に183の文句は、「七仏通誡偈」と呼ばれ、漢訳文では「諸悪莫作、諸善奉行、 自浄其意、是諸仏教」といい、過去七仏がみなこの詩を説かれたという、仏教では非常に有名な句であります。
結局のところ、これが「仏の教えの真髄」であるとも言われるほど、重要視されている句で、文字通り、「すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること」が仏の教えである、といわれるのです。
ただ、少し掘り下げて見ていくと、実は善悪の判断基準というものは、なかなか、曖昧な側面を持っており、そこのところを踏まえた上で、経典の他の箇所を見てみると「善と悪を捨て云々・・・」とも説かれているように、道徳上の善悪をさらに超越した境地まで高められていかなければならないとされるのです。
しかしながら、
はじめから善悪を超越して、なんて考えると、自分の都合のいいように、善悪を区別無く判断してしまう危険性もあり、(実際、お坊さんの中には、社会的にどう考えても非常識な、一般的には「悪い行ない」をしておきながら、「私は善悪にとらわれないのです。
社会のルールや常識に、とらわれているほうが、未熟なのです」などと言って、自分の都合のいいように解釈して平然としてらっしゃる方もおられます。
(もしかしたら本当に超越してしまっているのかもしれませんが・・・)
ですから先ずは、道徳上の善悪というものを、そのまま判断基準にしていいと思います。
善悪を超越するということは、一般的な道徳上の善悪をしっかりと判断できるという前提の上に、ようやく成り立つものだと思います。
さらには、「懺悔」をするということが、善悪の正しい判断をするための重要な要素になります。
「七仏通誡偈」の第三句目の「自浄其意=自己の心を浄めること」ということも、この「懺悔」なしには、成し得ない事です。
大体において、仏前勤行次第では、冒頭に懺悔文をお唱えして、懺悔反省をして、心の洗濯をした後に、経の読誦を行なうようになっています。
これをみても、経典をより深く味わい、仏の教えを理解・体得するためには、この懺悔するということが、とても大切なことであることがわかると思います。
このように、懺悔をすることによって、自己の心の状態や、行動・言動の一々に注意を向けることによって、より事の善悪というものを深く広い視点でとらえられるようになり「己の心を浄めること」にもなるのだと思います。
そして「自己の心を浄めること」に努めることによって「慈悲の心」というものが、より鮮明に現れてきます。
この「慈悲の心」によって、善悪を超越した境地にも、至ることができるのだと思います。

